私が大学を卒業して数年後、長野県食品工業試験場(現長野県工業技術総合センター食品技術部門)で働きはじめたのは、昭和も終わろうかという時期でした。まさにバイオテクノロジーという技術が世の中で大きな注目を集め、この技術により世の中の、食品を含め、様々な世界がガラッと変わるものと皆が期待しました。そこでの初めての仕事は、細胞融合技術を使って味噌用酵母と清酒用酵母から耐塩性でアルコール高生産性の酵母を育種することでした。しかし後にわかることですが、属間融合は困難でした。そこで清酒用酵母どうしでも、新しい特性を持つ菌株の育種ができれば価値が生じるのではないかと考え、実行しました。顕微鏡の中で融合し巨大化した新しい菌株を見たときには、不遜にも自分が神になったかのような感動を覚えました。そんな時、学会で衝撃的な発表がありました。なんと清酒の吟醸香の成分であるカプロン酸エチルを従来の何倍も作る株がセルレニンという抗生物質に耐性となった株の中に見出されたというのです。カプロン酸エチルは独特のリンゴの様な果実香があり、現在でも吟醸酒の香り成分の主体です。祈るような気持ちで、培養器の中の何十というシャーレをみつめました。そのひとつにコロニーが出現していました。これがアルプス酵母です。その後、アルプス酵母を超える高生産性酵母が、この画期的な技術により様々な機関で生み出されました。これらの軽い酒質の中に華やかな香りを持つ吟醸酒は現在の各種コンテストを席捲しています。

このような吟醸酒用酵母があって、今の新しい日本酒の世界が開けたものと私は考えます。小さな蔵でも、このような酵母を用いることで、短期間に知名度を上げることも可能になりました。また清酒が世界の人々に飲んでいただけるアルコール飲料になったのも、これらの酵母達が大きな力を発揮した結果だと思っています。

協会901号を親株に用いたアルプス酵母は、育種当初はコンテストを席捲しましたが、現在多く使われている吟醸酵母とは少し違います。この株で醸した酒は独特の甘みと味がありました。今回、当時のアルプス酵母で醸した酒の印象に近づけるため、その後私が育種した2つの酵母による酒がブレンドされています。一つは長野D酵母です。これは八年間冷蔵庫の中に放置されていたシャーレの中で生き延びた酵母を親株としたもので、アルプス酵母よりも多くのカプロン酸エチル生成性を示します。またもう一つは何千という株の中から偶然見出したリンゴ酸というキレの良い酸を多量に生成する長野R酵母です。

これらの酵母達が生みだす風味豊かなスペシャルブレンドをご賞味いただければ幸いです。

令和2年12月 蟻川 幸彦

裏ラベル

〇育種酵母について

アルプス酵母:平成元年に育種した吟醸酒用酵母の先駆けです。当時はコンテストを席巻しました。今でも県内14場で利用(令和2年度)されています。アルプス酵母で醸した酒は、どちらかと言うと独特の味と甘みがあります。香りもカプロン酸エチル(吟醸香)以外の香りを多く含み複雑です。国内よりも海外での評価が高くなっており、最近では海外で最も権威のあるIWC(インターナショナルワインチャレンジ)のチャンピオンになった酒も、この酵母で醸した酒でした。

平成5年1月10日 信濃毎日新聞朝刊
アルプス吟醸酒(左)    長野オリンピックラベル(右)

長野R酵母:協会901号酵母の多数の変異株(4800株)についてひたすら発酵試験を行い、香り成分である酢酸イソアミル(バナナ香)の生産性の高い菌株を数株分離しました。その後仕込み試験を行ったところ、分離株の一つに偶然にも多量のリンゴ酸を生産する能力があることがわかりました。この株が長野R酵母です。

酢酸イソアミル高生産性株の分離
リンゴ酸生成量

長野D酵母:セルレニン耐性酵母は発酵力が少し落ちる傾向がありました。またアルプス酵母のカプロン酸エチルの生産性は、その後同様な手法により各地で育種された酵母と比べ少し物足りないものとなりました。そこで長野R酵母を分離した時に用いたシャーレ(8年間冷蔵庫で放置しておいた)の中のコロニー(約70,000)より生き残っていた株を分離し、その中から発酵力の高い株を分離しました(八年酵母)。この株を親株としてセルレニン耐性を付与して、高いカプロン酸エチル生産性を持つ株を分離しました(通常の八倍)。これが長野D酵母です。

低温高発酵性酵母の分離(八年酵母:長野D酵母の親株)
カプロン酸エチル高生産性株の分離

【文献】

  • アルプス酵母(長野C酵母 C9)  蟻川幸彦、近藤君夫、桑原秀明、吉川茂利、馬場 茂、小栗 勇:変異処理による清酒用酵母の育種(第2報 高酢酸イソアミル・高カプロン酸エチル生産株の育種)、長野食工試研報, 17,52-55 (1989)
  • 長野R酵母 (P43-14)     Arikawa. Y, M. Yamada, M. Shimosaka, M. Okazaki, M. Fukuzawa, “Isolation of sake yeast mutants producing a higher level of ethyl caproate and/or iso-amyl acetate”, J. Biosci. Bioeng., 90, 675-677 (2000))
  • 長野D酵母 (41-33)       蟻川幸彦、榛葉芳夫:低温高発酵性清酒酵母、醸協誌、103、517-524 (2008)

〇裏ラベルについて

私と味センサの出会いは、平成5年に松本市で開かれた信州博覧会でした。まだ実機は存在しない中で、開発者の九州大学の都甲先生や池崎さん(現(株)インテリジェントセンサテクノロジー社長)に無理を言ってきき酒用のロボットを作ってもらい無事出展できました。それ以来ずっと酵母の育種と並行して味センサの利用について研究してきました。このたびアルプス酵母スペシャルブレンドを世に出すにあたり、味センサを商業的に利用する企業である(株)味香り戦略研究所の小柳社長にお願いし、味の見える化をさせていただきました。

平成5年開催信州博覧会「信州酒博士」展示ブースにて(右 都甲先生)
2016年戸隠神社にて(中央 都甲先生、右 池崎社長)

〇(株)よしのやでの展示について

原酒を提供していただいた株式会社よしのやの酒造展示室に清酒アルプス酵母スペシャルブレンドならびに初出論文を展示していただいています。販売所で販売もしていただいています。また信州博で用いた味センサー初号機も展示してあります。

(株)よしのや

〒380-0857 長野県長野市西之門町941

TEL: 090-2248-1324

酒蔵見学コース

<開場時間> 8:30~17:00

売店
<開場時間>8:30~17:30(繁忙期延長あり)

味センサ初号機